2018
11.25

「合理性・ちゃんとする」 の魔界

利乃

私はつくづく思う 文化的に生きる道を模索する。
文化はつながりに努力するが、合理性は自分にとってわずらわしい事を切り捨てていく。

合理性はすぐに進める。次々とこなしてゆく生き方。
文化性は時間を費やすし、ひっかかりの多い生き方かも。

貴方様は、どちらですか~。なんて質問はしないが、ひとつ大きな恐ろしさがある。
合理性 ちゃんとする 形式主義の人は、なかなか文化的な事柄が理解しにくいようだしそれらを見下げている。しかし、文化的に生きようとする人は、形式主義の人も受け入れる事が出来る。だから私は文化的に生きたい。

だって、合理性を追求する形式主義の人は、合理性の違いや、「ちゃんと」の捉え方の違いが互いの上に生じると、形式主義者同士でよくケンカをしているから。なにげないケンカ。人が聞くと、「それぐらい譲り合ったら」という感じの言い合い、争いがとても多いのだ。

自分はそれが正しいと思い込んでいて自分なりのスタイルがあって、自分の器の狭さに気づかずにスタオルを通す。立派に結果を出しているから、相手に押し付けるのか。それはお互いの価値観の違い。と言いながら、縁を切り捨てる。

歴史も個人の人生も、目的に向かって無駄なく一直線に進める人生など誰にもありえない。
と、いう事は、文化的に生きるとは、縁をさらに良き縁に変えていく文化力を求めているのかもしれない。

合理主義・ちゃんとする思想では、幸福を掴むことが実はできない。
それは、歴史が証明しているのだから。

心 負けず 笑顔を立ち上げたい。
きっと、イコール それが文化力なのではなかろうか。

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